2006年08月28日

伝記(ファーブル)

伝記・ファーブル

ファーブル.JPGジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre, 1823年12月23日 - 1915年10月11日)は、フランスの生物学者。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をした事でも知られ、数々の曲を遺している。

南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。 コルシカ島、アヴィニオンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブル自身の業績は、祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳され注目を浴び、多くの人々を魅了して彼の長年の業績が高く評価されていったのは事実である。

経歴
ファーブルの父方の祖父は羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず様々な手伝い仕事を転々とし、やはり大規模な自作農の出の妻のサン・レオンにある実家サルグ家や、妻の婦人用皮手袋作りの内職に経済的援助を仰ぐ貧しい生活だった。ジャン=アンリは4歳から7歳までの時、弟のフレデリックが生まれた事もあって、母が育児をし、また内職を続けるのを妨げない為に、20km程離れた父の郷里のマラヴァルの祖父の大家族で育てられた。自然豊かな環境で育ったことがその後の人生に影響を与えたと言われている。7歳になって学校に行く為にサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。

しかし1833年になって10歳の時に、父が都会の生活に憧れていた為に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。ファーブルはその後生地に戻ることは二度と無かった。両親が教育には理解があった事、王立中学の礼拝堂で司祭のミサを手助けし、聖歌隊の役を務める事を条件に学費が免除された事もあって中学校進学が叶い、ラテン語とギリシア語で優秀な成績を収めた。しかし、接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れる事となった。父はその後オーヴェルニュ、トゥールーズ、モンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて中学二年に相当する第五学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学を続ける事となった。

1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集している事を知り、入学試験に首位で合格する。1839年に師範学校に入学し、3年後首席で卒業、小学校上級免状を取得した。その後独学で数学を習得し、カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、21歳で同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。そして2人の子供に恵まれるも、すぐに死んでしまうという不幸に見舞われた。その後コルシカ島の大学に進み数学を勉強するも以後数学よりも昆虫学に傾倒していく。

アヴィニオンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き同時に研究資金を稼ぎ大学教授となる為の財産基準を満たす為に染料の材料であるアカネの研究に没頭した。そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得る事になる。しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。

1863年アヴィニオンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であった事から、受講生から大きな非難を浴びてしまう。その後、日ごろ独学で名を成したファーブルを妬む政界、教育界はこれを好機とみて、ファーブルを教壇から引きずり下ろす。この事件は彼に対するねたみだけでなく、教育をカトリック教会から切り離す上で大きな働きをした当時の文部大臣デュリュイへの、宗教界からの意趣返しの側面も大きかったとされる。ファーブルはデュリュイから彼の教育改革を象徴する教育者として大変ひいきにされていたのである。その後、家主にも追い立てられたファーブルは住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。ファーブルは大きな試練に立たされるが昆虫記の執筆に注力するのはこの後の事である。

セリニアンに来て最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘と再婚する。そして3人の子に恵まれ合わせて8人の大所帯を持つ。

セリニアンの自宅には1haの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置して、老衰で亡くなるまで36年間、昆虫の研究に没頭した。ファーブルはここでオオクジャクヤママユの研究からメスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すという事を突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユをおいて、一晩窓を開けていると翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく生活は極貧であったと言われている。昆虫記ほか科学啓蒙書の売れ行きもさっぱりであった。85歳を超えたファーブルは健康を損ない、横になる事が多くなる。そしてヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動がおき、当時のフランス大統領ポアンカレーはファーブルに年2000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与える。しかし時すでに遅く、ファーブルは燃え尽きていた。

1915年、彼は担架に乗せられて愛するアルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最期の野外活動となってしまう。そして同年10月11日老衰と尿毒症で亡くなる。ファーブル92歳の事だった。葬儀のときファーブルの眠る墓にどこからともなく、虫が寄って来たという逸話が伝えられている。



原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。


肉まん父さんがこの本を読んだ時は、56ページの「これこそほんとうにやりたかったことなんだ!」というシーンで、肉まん父さんの若かった昔を思い出しました。
ラベル:伝記
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伝記(シュバイツァー)

伝記・シュバイツァー

シュバイツァー.JPGアルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer 1875年1月14日 ドイツ帝国オーバーエルザス・カイザースベルク Kaysersberg(現フランス・オ=ラン県ケゼルスベルグ) - 1965年9月4日)は、ドイツ出身の神学者・哲学者・医者・音楽家。30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げた。「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれている。他に音楽にも精通し、バッハ研究でも有名。マザー・テレサやマハトマ・ガンジーと並び、20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。日本においても、内村鑑三などによって古くから紹介され、その業績は野口英世のように児童向けの読み物においても触れることのできる人物である。

生涯
シュバイツァーは、1875年にアルザスに牧師の子として生まれる。アルザス地方は、独仏の紛争地であり、両国によって絶えず領土争いをされていたところで、シュバイツァー自身もドイツ語とフランス語両方に堪能であった。7歳の頃から、鍵盤楽器を習い、14歳の頃にはパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。高等学校卒業後、シュトラスブルク(ストラスブール)大学に進学。神学博士・哲学博士を取得する。哲学博士の論文は『カントの宗教哲学』であった。21歳の時、30歳までは芸術と科学を身に付けることを許されていると考え、30歳の時に改めて医学を学ぶ。38歳の時に医学博士を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュバイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュバイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。第二次世界大戦後は広島と長崎に核爆弾を落とされたのを知り、核問題を中心に戦争反対運動を展開。1952年には、ノーベル平和賞を受賞する。晩年もランバレネにおいて医療活動を展開していたが、1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。好物は風月堂のゴーフルであり、ランバレネを訪れる日本人はゴーフルを持参するのが通例だった。

思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも邦訳あり)があるが、いずれも一級の研究書として、研究者らに受け入れられている。神学者としての著作の「イエス伝」は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価がたかい。他にゲーテやインド思想などにも言及しており、日本でも白水社より全集が刊行されている。なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。

一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュバイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない。自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実であり、彼については西洋からの視線だけではなくアフリカからの視線でも検証する必要もある。現在においてもアフリカの一部の保守階層からは、ヨーロッパの列強の植民地支配のシンボルとして扱われるケースがあることも言及しておく必要がある。



 以上は、有名なネット上でのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用しましたが、

原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。


肉まん父さんがこの本を読んで、75ページの「人は・・・、人は、どう生きるのが正しいのだろう。」というシーンを読んで考えさせられたのを覚えています。
ラベル:伝記
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伝記(エジソン)

伝記・エジソン


エジソン.JPGトーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison、エディソン、1847年2月11日 - 1931年10月18日)は、その生涯においておよそ1300もの発明を行ったアメリカの発明家であり、起業家である。

研究所のおかれた地名にちなんで、「メンロパークの魔術師(The Wizard of Menlo Park)」と呼ばれた。リュミエール兄弟と並んで映画の父ともいわれている。ゼネラル・エレクトリック(GE)の創業者でもある。

日本では長らく「エジソン」という慣用表記が定着してきたが、最近は原名に近く「エディソン」「エディスン」とつづる場合も見られる。


トーマス・エディソンは1847年2月11日にミラン(オハイオ州)でエジソン・サミュエル・オグデンJr.とナンシー・マシューズ・エリオット(1810-1871)の間に生まれた。母・ナンシー。 トーマスは彼らの7番目の子供で、彼が7歳であったときに、家族はポートヒューロン(ミシガン)に移った。

1877年に蓄音機で名声を獲得。ニュージャージー州にメンローパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。後年エジソンの設立したGE社は、これを「集合天才」(Collective Genius)と呼んでいる。 この研究所において電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離符、電灯照明、などを矢継ぎ早に発明、中でも白熱電球に注力する。 白熱電球には既に数多くの発明があったがこれを実用的に改良。特許訴訟となり、裁判で特許が有効と判定されるまで時間を費やす。一方で白熱電球の売り込みのための合弁会社を成立。直流の電力を供給するシステムを確立させる。

1887年にウェストオレンジ研究室に移る。ここでは動画撮影機キネトグラフを発明する。

鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所にこもり実験を続ける。研究所が火事で全焼になるが、臆せず、その後も研究を続けた。

また、英単語のHELLOを発明したのも彼であり、 それによってアメリカ人の性格まで変わったと言われる (当時アメリカには「知らない人には声を掛けない」という風習があったが、 HELLOの発明以降、知らない人にも声を掛けるようになったと言われる)。

自動車王のヘンリー・フォードとは生涯の友人であった。



 以上は、有名なネット上でのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用しましたが、

原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。

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[著者] 小林 たつよし黒沢 哲哉
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肉まん父さんが、この本を読んだ時は、124ページの「まさか・・・。わたしは夢を見ているのか。」というシーンで、肉まん父さんも、いつかこのような言葉を言いたいものだと思った事を覚えています。
ラベル:伝記
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伝記(ナイチンゲール)

伝記・ナイチンゲール

ナイチンゲール.JPGフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イタリアのフィレンツェ(英語名フローレンス)生まれのイギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。あまり知られていないが病院建築でも、非凡な才能を発揮したし、ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(Benjamin Jowett)とも親しく交流した。



フローレンス・ナイチンゲール裕福なジェントリの家庭に育ったナイチンゲールは看護婦を志し、のちに婦人病院長となる。しかし、クリミア戦争が勃発すると、翌1854年、自ら志願して38名の看護婦を率い従軍した。

スクタリ病院の看護の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。

ナイチンゲールは赤十字活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していたが、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、赤十字国際委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。



 以上は、有名なネット上でのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用しましたが、

原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。

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[著者] 甲斐 汎よしかわ 進
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 肉まん父さんが、この本を読んでみると、111ページの「お金や高い位を与えて喜ぶ人ではない、ナイチンゲールさんに看護婦学校をプレゼントしてあげたい」という意見で「ナイチンゲール基金」がつくられたシーンをみて、何か感じる物があったのを覚えています。
ラベル:伝記
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伝記(マザー・テレサ)

伝記・マザーテレサ


マザーテレサ.JPGマザー・テレサ
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レーガン大統領とマザー・テレサマザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月27日 - 1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。コルカタ(カルカッタ)で始まったマザー・テレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。マザーというのは指導的な修道女への敬称であり、テレサというのは修道名である。本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(花のつぼみの意)。カトリック教会の福者。

生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国の名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月23日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。




 以上は、有名なネット上でのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用しましたが、

原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。

マザー・テレサ―貧しい人びとに限りなき愛をそそいだ現代の聖女マザー・テレサ―貧しい人びとに限りなき愛をそそいだ現代の聖女
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[著者] あべ さより滝田 よしひろ
[種類] 単行本
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肉まん父さんが、この本を読んで124ページのマザーテレサの「日本に来て、わたしはとても不思議に思いました。東京の大きな駅の前にも、住む家がない人びとがいました。」
 「こんなにたくさんの物があふれた豊かな国なのに。」
 「なぜ、だれも手をさしのべずに、顔をそむけて通り過ぎるのでしょう。」

というシーンを読んで、複雑な思いを感じた事を覚えています。
ラベル:伝記
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2006年08月27日

伝記(キュリー夫人)

伝記・キュリー夫人


キュリー夫人.JPGマリ・キュリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ノーベル賞受賞者
受賞年: 1903年
受賞部門: ノーベル物理学賞
受賞理由: 放射能の研究

ノーベル賞受賞者
受賞年: 1911年
受賞部門: ノーベル化学賞
受賞理由: ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究

マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)はポーランドの物理学者・化学者。ワルシャワ生まれ。

ソルボンヌ大学を卒業。夫のピエール・キュリーともに、大量のピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の残渣からラジウムとポロニウムを精製、発見した。

1903年に夫婦でノーベル物理学賞を、1911年には単独でノーベル化学賞を受賞した。

彼女とその一家は歴史に名前をとどろかせている。彼女が物理学賞と化学賞、夫ピエールが物理学賞、娘夫婦(イレーヌ・ジョリオ=キュリーとフレデリック・ジョリオ=キュリー)がそれぞれ化学賞を得ている。一族四人、芸術家として別な一路を繁栄させた次女を含めても五人で獲得したノーベル賞の数は五つである。功績を称え放射能の単位「キュリー」に、またパリ大学のキャンパスに名が残る。

一方で、フランスの保守性と、ゴシップ好きのマスコミ攻撃(“夫の弟子と恋愛関係にある”と書き立てられた)により、科学アカデミー会員に選ばれる事はとうとうなかった。

1934年5月、体調不良で療養所に入院した。同年7月4日、研究の影響による白血病で死去。享年66。


 以上は、有名なネット上でのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用しましたが、

原書などは難しいので、肉まん父さんの二人の娘(くりぃむ&ホイップ)は次の漫画を母親(あんまん母さん)が近くの書店で購入し、それを喜んで何回も読んでいました。

キュリー夫人―ラジウムを発見した科学者キュリー夫人―ラジウムを発見した科学者
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[タイトル] キュリー夫人―ラジウムを発見した科学者
[著者] 比留間 五月森 有子
[種類] 単行本
[発売日] 1990-06
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 肉まん父さんがこの「キュリー夫人」を読んでみると、121ページの「わたしは、夫ピエールとともにラジウムを発見しました。ですから、この2度目のノーベル賞も、ピエールと一緒にいただいたものと考えます。」
というシーンに何かジーンとくるものがありました。


ラベル:伝記
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